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人生

いい人になりたいけど難癖や言いがかりをつけられる?対応は戦うこと?

いい人になりたいけど難癖や言いがかりをつけられる?対応は戦うこと?

先だって、友達が開いた船上パーティに参列しました。

私たちは日頃の生活ではジーンズやTシャツというくだけた感じの服装が多いです。

今回は船上という煌びやかな場で男性は背広、女性はドレスという華やかな服装で立食パーティに興じるというプランです。

普段よりドレスアップして船内で友人たちと時間を共有する。

そのような日常を離れた場はただそれだけでも私たちの感覚を昂らせます。

そのような経験を通じて、色々な思いつきが浮かび、友人同士で独創的なアイディアが生まれます。

金銭的に豊かな人がプレジャーボートを持つのもひょっとしたらそういう理由によることかもしれません。

かなり尊い経験をすることができました。

私自身もこのパーティをとても楽しみましたが、そのこととは別にパーティの日はいつもは有償で行っている一対一の相談を無償で引き受けました。

そうは言っても、当然本来の一対一の相談のようにはいきません。

私が相談を受ける場合、普段は一人に2時間半から3時間くらいかけますが、この時は4時間程度のパーティの間に5人から相談を受けました。

一人当たりの相談時間は、15~20分くらいでした。

会場ではお喋りが盛り上がっているので、私も相談者も注意力もそう研ぎ澄まされてはいません。

しかしながら、そうであっても各自が何らかの契機を掴んでくれたようでした。

いい人は難癖や言いがかりをつけられる?

いい人は難癖や言いがかりをつけられる?

相談の中のあるものに、「街を歩いていると因縁をよくつけられる」という相談がありました。

その相談者の方は、電車に乗っている時など、見ず知らずの人から「早く前に詰めろ」というように、しばしば難癖をつけられるといいます。

このような体験は、あなたにもあるのではないかと思います。

それは、こういうことは職業や男女交際、家庭といった各々違う私的な部分に関連する困りごとではなく、人が持っている精神構造それ自体に素因があるからです。

人の意識を美的感覚、顕現意識、潜伏意識、生物学的欲求の4段階に分けて考察します。

この中で、美的感覚と生物学的欲求からは真逆の願望が生じます。

例を挙げると、女性は「痩せたい」「可愛くなりたい」と願いますが、同じように「おなかいっぱい食べたい」「お菓子が食べたい」とも思っています。

女性だけではなく私たちは、常にこのような相反する二つの願い事に心を乱されています。

痩せるためには適度な自己管理をしなければなりません。

しかしながら、そのことがわかっているのに、つい食べるものに触手を伸ばしては、

「なぜ、自分は意志薄弱なのだろう」

と気落ちしがちです。

しかし、そのような気落ち方には解決の糸口がありません。

どうしてかというと、私たちには美的感覚と生物学的欲求という、本来相反する欲求が引き合う仕組みがあるからです。

自分磨き

いい人は難癖や言いがかりをつけられる?

美的感覚が勝れば私たちは自己管理を選び、生物学的欲求が勝れば私たちは食べ過ぎ飲み過ぎを選びます。

ですので、もしも自身に「なぜ?」と尋ねるのなら「なぜ私は意志薄弱なのだろう」でなく「なぜ私は美しくなりたいのだろう」と尋ねた方が前向きです。

その自問自答の中で自身だけの訳を見つければ「美しくなりたい」という美的感覚が広がり、それが生物学的欲求を凌いで自ずから美しくなるための振る舞いをするようになります。

こうして美的感覚の広がりに取り掛かるのが「自分磨き」です。

美的感覚と生物学的欲求は食い意地だけでなく、その他の色々な状況でも厄介事を誘発します。

「街で因縁をつけられる」という苦しさもそうです。

私たちは交友関係について「調和」と「競合」という相反する評価規準を持っています。

調和意識は美的感覚より生じ、競合意識は生物学的欲求より生じます。

もしも私たちが過度に生物学的で競合的過ぎるとすれば、世間は成立しません。

ですから学校では

「周囲の人と打ち解け合いましょう」

「相手を苦しめてはいけません」と指導し続けます。

そのことは、本当に尤もなのですが、人は百人百様です。

悪辣で乱暴な人物はこのような調和を軽視し競合意識に基づいて則って活動します。

そのような悪辣で乱暴な人物が標的にするのが「善人」です。

いい人は争わない?

いい人は難癖や言いがかりをつけられる?

いい人は闘いを嫌い、他の人と争いごとに陥るくらいならその人を優遇させて自身は堪えようとします。

そのことは素晴らしい心構えですが、合わせて

「自分はどのように扱われても逆らいません」

と言いふらしているかのようなものでもあります。

このことは、まともに口に出しているわけではなく、その人の行動の仕方や視線の動き、素振りの細部から伝わってくる佇まいとして表現されます。

人は佇まいに対して私たちが思っているよりも遥かに感じ易いのです。

現実に対話が開始される以前に、どんな相手にどのような口調でどんなことを言うか、若しくはどんなことを言わないかを決定しています。

悪辣な人物も誰にでも争いごとを仕掛けているとは限りません。

そのような人物は自身ではそうと意識せずに

「この相手ならどんなことを吹っ掛けても平気だな」

と値踏みをしています。

そのような人物に矛先を向けられるのはいくら何でも馬鹿馬鹿しいことです。

それでは、どのようにすれば難癖を吹っ掛けられないようになれるのでしょうか。

心の中に刃を持つ

いい人は難癖や言いがかりをつけられる?

「自身の身を防御するのは当たり前の権利」という当然のことを思い返しましょう。

人は美的感覚と生物学的欲求の二つの側面を持ち合わせています。

仮に「平穏に、仲睦まじく、綺麗に生きたい」と考えても、「争う」という選択を捨ててはいけません。

相手を苦しめてはいけません。

全く言う通りです。

でも、自身が苦しめられている状況なのに、それでも苦しめてはいけないというのは不条理な理屈です。

犬には牙があり、猫には爪があります。そして、もしも自身が苦しめられる状態になれば、犬や猫はその牙や爪を使って戦うのです。

抑圧に対する抗いは人間も含め、全部の生き物に授けられた力であって権利です。

そういう訳で、私はこのような質問を受けた時はいつも「心の中に刃を持ちましょう」と提案しています。

私たちは感じ取りたいものを感じ取れる力を持ち、感じ取りたいものを感じ取れる権利があります。

そのような権利が脅かされるなら、刃を使って争いましょう。

自分自身を守る為に争うのは悪徳でもはた迷惑でもないのです。

人が力や権利を取り返すのは精神

人が力や権利を取り返すのは精神

これまでに、父親からの抑圧に苦慮している若者から助言を求められたことがありあます。私は若者に「これまでに一回でも抗ったことがありますか?」と質問しました。

若者はその問いに対して

「おそらくないです。ですが、あるならそれは今この時だと考えています」

と返してくれました。

その時に起きた変わり様は今も忘れることができません。

その時まで紙の如く薄っぺらだった若者の声音にみるみる力強さが湧き出てきました。

人が力や権利を取り返すのは、どんな時も精神から始まります。

そうするとその精神の強さが佇まいに具現化されて、因縁やあら探しが自ずから少なくなります。

悪辣な乱暴な人物も、自身にとって好都合な標的を見つけようとしています。

自分からやり返されそうな気丈な人に喧嘩を吹っ掛ける愚か者はいません。

ですので「心に刃を持つ」とは言いつつも本当に刃を使う必要はありません。

「自分から刃を振るうことはないが、もし何かあれば相手も無傷ではおかない」という目には見えない覚悟を以てすれば元からもめ事が発生しなくなります。

事象には「決着」ではなく「撤回」という捉え方があり自己研鑽はこのことを目標の一つとしています。

あなたが自分らしくいられるために

人が力や権利を取り返すのは精神

今回の主題は街の中という状況でしたが、あら探しや因縁をつけることは家族の中や職場など人と人の関わり合いの全ての状況で起こります。

くだらない人物と関わって、あなたが不愉快な思いをすることなどあり得ませんし、

「なぜあの人は酷いことができるのか?」

と悩む謂れもありません。

自ら喧嘩を吹っ掛けることは論ずるに値しませんが、「やり返す心構え」はどのような時も持ち合わせておきましょう。

あなたが自分らしくいられるために、忘れてはならないことです。